平成14年12月4日 KBS京都 京都チャンネル 放映

CS放送「スカイパーフェクTV」726チャンネル:KBS京都:京都チャンネル「京都最新情報」にて、八大神社の映像が放映されました。
(昼12:00〜12:55)

京都チャンネル
http://www.kyoto-channel.com/

スカイパーフェクTV
http://www.kyoto-channel.com/

平成14年11月24日 NHK東京 取材

2003年1月15日に放映されるNHK「その時歴史が動いた」で宮本武蔵特集番組が放送される際に、一乗寺下り松および八大神社が放映されるため、2002年11月24日にNHK東京の取材がありました。

NHK「その時歴史が動いた」
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/

NHK
http://www.nhk.or.jp/

NHK東京の取材風景

021124NHK東京01「随筆宮本武蔵」初版本の文中挿絵「下り松古木」をNHKスタッフの方々にお見せしているところです。本は以前に一乗寺在住の方から八大神社に寄贈されたものです。




021124NHK東京02四代目下り松の撮影をしているところです。松の背後の遠景に以前あった、美しい土塀の民家が壊されて工事中なのが残念でした。




021124NHK東京03四代目下り松が撮影されているところです。カメラが三脚からはずされて人の手の動きによって木が「立体スキャン」されています。




021124NHK東京04八大神社本殿が撮影されているところです。本殿右手の紅葉はすでに赤枯れて初冬の風景でした。





021124NHK東京05本殿の鈴へ向かう動線・視線をなぞるように動きながらカメラが撮影しているところです。宮司の手で砂が掃き清められました。






平成14年11月15日 京都新聞

記事021115京都新聞 2002(平成14年)11月15日掲載記事 転載

一乗寺の歴史、後世に伝えたい
住民が古文書整理


京都市左京区一乗寺地区の氏神・八大神社で、地元の住民有志が協力して、江戸初期から昭和初期までの一乗寺の古文書の整理を進めている。村の神事や雨ごい、争いごとなどが克明に記されており、貴重な郷土資料として保存する。住民らは「ミニ資料館を作って、地元の歴史を後世に伝えたい」と張り切っている。

整理しているのは、八大神社や近くの集会所に保管してあった旧村の日誌「会所日記」や神事記録、絵図など約3000点。1931(昭和6)年に一乗寺村が京都市に編入されて以来、一部の貴重な資料を除いて無整理ののままで、処分される恐れもあったという。

このため地元有志5人ほどが今年6月から週に1、2回集まり、専門の市職員や大学生の協力を得ながら、古文書に整理番号を付け、古い順に並べるなど閲覧しやすい状態にしている。

古文書には、江戸時代に比叡山頂にあった地蔵に雨ごいを祈願する際の方法や、隣の修学院村との水や土地争いの経過をはじめ、村の畑にスイカ泥棒が現れた時の処罰の記録など、一乗寺のさまざまな出来事や言い伝えが記されている。

来春には整理作業を終え、神社の一角を郷土資料室にして公開する計画もある。住民有志の1人、河村正男さん(80)=一乗寺西浦畑町=は「古文書に先祖の名前が出てくる人もいて、整理していて興味深い。子どもたちに地域への愛着を持ってもらうきっかけになれば」と話している。

写真=一乗寺の古文書を整理する地元の住民有志ら (左京区・八大神社)

平成14年10月5日 京都新聞

記事021005京都新聞 2002(平成14年)10月5日掲載記事 転載

「一乗寺」を全国に
大河ドラマ「武蔵」で地元熱く


江戸初期の剣豪・宮本武蔵が「一乗寺下り松の決闘」に臨んだ−と、吉川英治の小説で取り上げられた京都市左京区一乗寺で今秋、武蔵の銅像建立や写真展などが計画されている。来年のNHK大河ドラマ「武蔵」の放映を前に、武蔵の人生の転機となったとされる一乗寺の地の「全国発信」を目指して、地元の八大神社の氏子や商店主たちが準備を進めている。

武蔵の詳しい生い立ちは不明だが、吉川英治は小説「宮本武蔵」の中で一六〇四(慶長九)年、武蔵が二十一歳の時、京都の武道の名門・吉岡一門と八大神社の「下り松」の下で「一乗寺下り松の決闘」を繰り広げたと記している。この決闘は、武蔵が生涯で最も悪戦苦闘したとされ、一人で百人ほどを相手にし、二刀流で勝ち抜いたとされる。

銅像建立は、来年の大河ドラマで武蔵が主人公になることや、二〇〇四年が決闘から満四百年になるのを前に、今年六月に地元住民が建立委員会=委員長・竹内紀雄八大神社宮司(62)=を設立。寄付を募って、製作を大津市の彫刻家柴田篤男さん(58)に依頼した。

銅像は高さ一・五メートルあり、二刀流で決闘に臨む武蔵を力強く表現する。境内に残る「下り松」の古株の横に設置し、二十七日に除幕する。

このほか、除幕に合わせて萬屋錦之介主演の映画「一乗寺下り松の決闘」の名場面写真展を神社境内で開催、来年以降も一乗寺の観光マップ作りや武蔵にちなんだのぼりの設置などを進め、観光客の増加や地域の活性化を図る。また、武蔵にちなんだ商品の販売を計画する酒店や和菓子店なども出てきている。

竹内宮司は「吉川英治さんの小説では、武蔵は一乗寺で『我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず』という信念を悟ったとされ、人生の転機となった大切な場所。銅像の建立などを契機に、地域が一丸となって、武蔵にちなんだまちづくりを進めていければ」と張り切っている。

写真=宮本武蔵の銅像建立などを計画する八大神社の竹内宮司(左端)や地元の人たち(京都市左京区一乗寺・八大神社)

平成11年9月14日 京都新聞

写真990914京都新聞 1999年(平成11年)9月14日掲載記事 転載
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「一乗寺道」(京都市左京区一乗寺)
下り松に伝わる武蔵決闘


一乗寺はもともと、京都から比叡山や近江国へ至る交通の要地として開けた。一乗寺道の南端は、剣豪・宮本武蔵と吉岡又七郎が決闘したと伝わる一乗寺下り松。休日は、詩仙堂や曼殊院、修学院離宮など洛北の名勝巡りの起点として観光客でにぎわうが、ふだんは落ち着いたたたずまいの生活道路だ。

詩仙堂は、下り松から東へ二百メートル。江戸初期の文人・石川丈山の山荘跡で大坂夏の陣での軍功が徳川家康に疎まれた丈山が九十歳で没するまでの三十年を過ごした。南の金福寺には、松尾芭蕉が旅のつえを休めた庵(いおり)が残る。芭蕉庵(あん)を再興した与謝蕪村もこの地を愛し、葬られた。

江戸末期には安政の大獄に携わった村上たか女が出家して余生を送り、同時期、失脚した反幕派の三条実方もこの里の郷士宅に身を寄せた。かつて都は遠い存在。一乗寺は、都のけん騒や追っ手を逃れた人たちの隠せいの地だった。

点在する古跡や郷士の流れをくむ里人の石塀土壁の立派な民家が、風雅と寂ばくの逸話をかろうじて伝える。だが、下り松から西を向けば、白川通の忙しい往来がすぐそこに。新しい住宅が立ち並び、渋滞を嫌う車が抜け道を探して迷い込む。ここはもう、すっかり都市の一部になった。

メモ
一乗寺道は近江・坂本から都へ続く京道や雲母(きらら)坂を結ぶ南北一.二キロの旧街道。下り松は、平敦盛の遺児と法然の出会いの場としても有名。武蔵決闘の時代の松は氏神でもある八大神社の境内に。

写真:石塀土壁の民家が点在する一乗寺道。左が目印の下り松。現代は4代目という

平成2年11月15日 京都新聞

写真901115京都新聞 1990年(平成2年)11月15日掲載記事 転載
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「一乗寺下り松 」(京都市左京区)
武蔵はじめ数多い逸話


いきなり現れた武蔵の一刀に、十七歳の吉岡又七郎は抜きあわせる間もなく血に染まった。慶長九年(1604年)の春、まだ明けきらぬ朝もやの中。下(さが)り松の下で宮本武蔵と京の兵法家・吉岡一門の戦い「一乗寺下り松の決闘」は、吉岡側の完敗に終わった、と伝えられる。

下り松は今もある。白川通から東へ折れ、詩仙堂に向かって登った道の右手、八大神社の境内地に立つ。武蔵の時代から植えつがれ、現在は四代目という。

松の前では道は二つに分かれる。北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に比叡山を経て近江へ通じる。平安時代からの古い街道である。

「戦後も昭和三十年代まではここも田んぼと畑が広がり、松に登れば洛中が一望に見渡せるほどでした。深い竹藪(やぶ)からは武蔵がそのまま飛び出して来そうな風情があったけど、今はもう全く変わって・・・」。下り松の歴史にも詳しい八大神社の竹内紀雄宮司が言うように、松の周りには観光客相手のみやげもの屋や漬物店などが建て込む。アスファルトになった街道には車がひっきりなしに走る。

一乗寺下り松には由緒や逸話が数多い。 中でも有名なのは「敦盛遺児伝説」。一の谷で戦死した平敦盛の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげた、という話だ。また、建武三年(1336年)、楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、ここに陣を構えたことも広く知られる。

だが、下り松の名を決定的に高めたのは、なんといっても吉川英治の「宮本武蔵」だった。昭和十年から新聞紙上に登場、やがてラジオを通じて流れ、映画になって日本人の心を捕らえる。今や「一乗寺下り松といえば宮本武蔵」となってしまった。

江戸時代、京には北野や紫野など、他にも有名な下り松が各所にあり、武蔵・吉岡一門決闘の場は「別のところだった」とする説がある。果たしてどこだったのか。真実がどうあれ、もはや定説が覆されることはないだろう。

下り松を見越す街道沿いにある剣道場「下り松道場」からは、武蔵を夢見て稽古(けいこ)に励む小学生たちの大きな掛け声が今日も聞こえてくる。

写真:一乗寺下り松

昭和57年1月12日 京都新聞

写真820112京都新聞 1982年(昭和57年)1月12日掲載記事 転載
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"4代目"お目見え(一乗寺の下り松 八大神社境内)
先代は昨春枯死 氏子寄進し植樹


宮本武蔵と吉岡一門の決闘で知られる左京区一乗寺・八大神社境内の”下り松”が昨年春、松くい虫の被害にあって枯死、地元の人たちを残念がらせていたが十一日、同神社の氏子らの手で”新生・下り松”が植えられた。地元の説明では決闘当時の松から数えて四代目という。

同区一乗寺花ノ木町あたりは、古くから洛中から滋賀への交通の要所として栄え、八大神社一ノ鳥居わきのクロマツは、”下り松”と呼ばれ、街道の目印となっていたほか、慶長九年(一六0四)の宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場になったことで知られる。

地元の人の話では、この決闘当時の初代下り松は昭和二十年まで現在の位置にあった。二代目は修学院離宮から移植され、その後、三代目に植え替えられた。(三代目への植え替え時期は不明)

この三代目が昨年三月ごろ、流行した松くい虫の被害にあい、五月ごろついに枯死した。この下り松を”一乗寺のシンボル”としてきた地元では、八大神社の氏子たちが中心となって善後策を検討してきたが、たまたま氏子の一人から丹精を込めて育ててきたクロマツを寄進したい、という話が持ち上がり、移植に最も適したこの時期を待っていた。

移植されたのは幹の直径約二十五センチ、樹高六メートル、樹齢三十年の立派なクロマツ。この日午後から氏子会代表の清水幸太郎さん(七九)ら約二十人の氏子役員が出て、新生下り松の植樹を行った。この移植作業を見守った竹内紀雄八大神社宮司も「下り松の名にふさわしい立派な松に育ってほしい」と”四代目”に大きな期待をかけていた。なお初代の下り松の古木は、現在も同神社に保存されている。

写真:氏子の手で植樹される"4代目"下り松

※新聞記事元原稿では植え替えに関する事実が誤記されていたため、上記の記述内で訂正・編集しています。