
京都新聞 1990年(平成2年)11月15日掲載記事 転載
記事を開く「一乗寺下り松 」(京都市左京区)
武蔵はじめ数多い逸話いきなり現れた武蔵の一刀に、十七歳の吉岡又七郎は抜きあわせる間もなく血に染まった。慶長九年(1604年)の春、まだ明けきらぬ朝もやの中。下(さが)り松の下で宮本武蔵と京の兵法家・吉岡一門の戦い「一乗寺下り松の決闘」は、吉岡側の完敗に終わった、と伝えられる。
下り松は今もある。白川通から東へ折れ、詩仙堂に向かって登った道の右手、八大神社の境内地に立つ。武蔵の時代から植えつがれ、現在は四代目という。
松の前では道は二つに分かれる。北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に比叡山を経て近江へ通じる。平安時代からの古い街道である。
「戦後も昭和三十年代まではここも田んぼと畑が広がり、松に登れば洛中が一望に見渡せるほどでした。深い竹藪(やぶ)からは武蔵がそのまま飛び出して来そうな風情があったけど、今はもう全く変わって・・・」。下り松の歴史にも詳しい八大神社の竹内紀雄宮司が言うように、松の周りには観光客相手のみやげもの屋や漬物店などが建て込む。アスファルトになった街道には車がひっきりなしに走る。
一乗寺下り松には由緒や逸話が数多い。 中でも有名なのは「敦盛遺児伝説」。一の谷で戦死した平敦盛の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげた、という話だ。また、建武三年(1336年)、楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、ここに陣を構えたことも広く知られる。
だが、下り松の名を決定的に高めたのは、なんといっても吉川英治の「宮本武蔵」だった。昭和十年から新聞紙上に登場、やがてラジオを通じて流れ、映画になって日本人の心を捕らえる。今や「一乗寺下り松といえば宮本武蔵」となってしまった。
江戸時代、京には北野や紫野など、他にも有名な下り松が各所にあり、武蔵・吉岡一門決闘の場は「別のところだった」とする説がある。果たしてどこだったのか。真実がどうあれ、もはや定説が覆されることはないだろう。
下り松を見越す街道沿いにある剣道場「下り松道場」からは、武蔵を夢見て稽古(けいこ)に励む小学生たちの大きな掛け声が今日も聞こえてくる。
写真:一乗寺下り松